Travelogue小正月

「小正月、見に来るか?今年は小さくしかやらねけども」
地域の行事は場所によってさまざまな風習の違いがある。でも、今でもそれが生活の一部として残っている地域は多くない。いつか見られたらいいなあと思っていた。
それに各々の家という小さい単位でやることが多いと聞いていたので、誘ってもらったときは、お邪魔していいのかな、という気持ちと、その小さな輪の中に入っていいよと言ってもらえたことが嬉しいな、という2つの気持ちになった。それをまぜこぜにして「ありがとうございます、ぜひ、みせてください」とお返事した。

前日まで雪が続き、「冬の靴でおいで」と言われていたので、私なりに装備を整えて行ったのだけれど、ふくらはぎまである雪の前で呆然とした。靴の長さが全然足りない…。見かねたおばあちゃんが、これぞ冬の靴!といった感じの長靴を貸してくれた。奇跡的に足のサイズもピッタリ。さあ、これで大丈夫。雪、どんとこい、と強気で家の裏手へ。


5分ほど歩いた先に、神様を祀っている場所があった。

ポケットからひょいと、ガラスのおちょこと、とっくりを出すおばあちゃん。

大雪だったから、今日は来れないんじゃないかと思って1人で先にお参りをすませてしまった、と言いながら、私たちのためにもう1度ろうそくに火をつけてくれた。
おばあちゃんの後ろで一緒に手を合わせる。

「法螺貝も吹くか?」え?ほらがい?
手渡されたのは、筒状の木。重くはないが、軽くもない。いや、重さはさほどでもないが、ふちのひび割れや、チョコレートのように深い茶色(きっと少しずつ、変わっていったのだろう)の木肌に、これまでの時間や人の手や、そのたくさんのシーンが想像できて重量とは別のおもさをずっしりと感じた。

「これを向こうの山に向かって吹く、あっちにも同じように法螺貝を吹く人がいてさ、向こうからも同じ音が返ってくる。それで何回も何回も、吹きあっていたんだよ」
携帯電話もない頃だから「ぴこん🎵今から法螺貝ね!」ってLINEで時間を相談したり…なんてことはないだろう。だからこそ、あちらの山の地区の人とのやまびこのようなやりとりの時間は、私たちが想像するよりずっとずっと楽しくて嬉しかったんじゃないかと思う。
吹いてみてもいいよ、と言われて見様見真似で息を吹き込むと、思いがけず大きな、元気の出る音が雪山に響いた。
当たり前だけど、あちらの山からの返事はない。(あったら怖い)

「よく鳴らした」
「なかなか最初から吹ける人はいないんだ」
「すごいすごい」
「たまげたことだ」
おばあちゃんから大きな声で褒めちぎられながら自宅へ移動。今年はなんだかいい1年になりそうだ。元気がなくなったら、自分が吹いたあの法螺貝の音を思い出そう。
ぶおぉおー



友人たちとおばあちゃんと一緒に、食卓にある大きなテーブルを囲んで座る。BGMはテレビの大相撲中継。冬の茗荷畑がどうなっているのか尋ねたら、「たくさん漬けたけど、最後の瓶だ」という朝島漬けをわけてくれた。この地区の茗荷はぷっくりとして本当に立派。レシピを知りたくて、紫蘇の葉の量を確認したら「あればあるだけ、多ければ多いほどいい」と言われた。ぐわっと紫蘇を掴んで豪快に茗荷と混ぜていくおばあちゃんの姿を思い浮かべる、かっこいいな。夏は漬物を教わりたい。

いつもは大きなお餅をお供えするのだそう。「今年はやらなくてもいいかな、って思ってたんだけど、やらないっていうのもなんだかね。だからほんとに小さく、少し。」
ひとりでも、小さくでも、少しでも。そう何度も話すおばあちゃんのひかえめな言葉とは逆に、私のカメラロールには法螺貝の音と、驚き嬉しそうな顔をする友人の姿が大きな思い出として残った。そんな1月の小正月でした。